ひきこもりについて
ひきこもりは「人的災害」の被害者 (2025年6月)
私が考える「人的災害」とは、自然災害や事件・事故・戦争・紛争とは違い、学校での長期間のいじめや、職場での長期間のパワハラ、親からの虐待、配偶者からのDV被害、性暴力被害、差別、親の過保護・過干渉、親から社会と合わない非現実的な理想主義教育を押し付け、など、
”周囲に見えないところで個別に発生する人為的災害” です。
恥ずかしくてみじめで他人には相談できない様な心の傷を負ってしまった人が、誰にも相談できず自分の意思(理性)に反して身体が勝手に防衛反応を起こして自主避難(無気力)をしている状態を「ひきこもり」と私は考えています。
また、先生や指導者からの暴言や威圧・体罰、大人からの激しい叱責や罰・責任追及、親からの進学先や職業の強制など本人の自由意思決定権のはく奪、親からの強制・命令による隷属的扱い、有能な兄弟や友達と比較され馬鹿にされる等も同様に心に傷を負います。
親や教師などから良い子・良い生徒でいる事を強要され自由にふるまうことを悪い事と教え込まれ従順な人間に育てられた人も、社会の中で要領よく合理的に行動することが出来ずに叱られ非難され生きる自信を失った人も被害者です。
人的災害の被害者は周囲の人の意見に縛られ、批判を受けて自信を失い何もできる事がなくなってしまったと追い詰められてしまいます。 でも本当はできる事があります。 評価してくれる人もいます。 そこに出会えていないだけです。
自然災害や戦争、事故などの場合は目撃した人から同情や理解を得られやすいですが、「人的災害」の場合は被害者が見えにくく、本人も本当の事を話せず、理解が得られず「あなたにも原因がある」だとか「努力が足りない」とか「怠けだ」とか「甘えだ」とか言われてしまいます。
人的災害は同情や理解が得られないどころか、場合によってはダメな人間とレッテルを張られ見下され、かえっていじめの標的にされてしまいます。それを恐れて本人も家族も隠れてしまいます。
自然災害や戦争・紛争では救助隊や支援物資が来て医療や心のケアをしてくれます。 人的災害の場合は個別の事案のため”見えない・気づかれない”だけでなく、「そんなの自己責任だ」「親の責任だろ」と言われる事を恐れ周囲に相談や助けを求められません。
最近ではDV被害や児童虐待、性暴力被害、いじめ・パワハラ被害、ひきこもりに対する支援が増えてきていますが、自分から相談にいけない人や声を上げられない人は困っていても救援を受けられていないのが現状です。
「人的災害」の原因は?
人的災害の多くは「利己主義」から発生します。
「一家の主として好き勝手に威張りたい」 → 配偶者(妻・夫)や子どもを暴力や暴言で恐怖を植え付け、支配して逆らわせない。
「お前が生まれたせいで私の自由が奪われた」 → なんでも子どものせいにしてストレスのはけ口として子どもを虐待する。
「性欲を満たしたい」 → 相手が嫌がっていてもレイプする。
「あいつ生意気だ、調子に乗っている。私よりも幸せそうだ」 → みんなでイジメて天狗になっている鼻をへし折ってやろう。
「威張りたい・優越感を得たい」 → 強い人には負けるから弱い人を見つけてイジメて優越感を得よう。
「子どもを幸せにしたい」 → 塾に通わせ良い学校に進学させ良い仕事に就いて良い収入と地位を得られるよう子供に強制。
「会社で早く出世して偉くなりたい」 → お前みたいな無能な部下がいると迷惑なんだよ、できないなら会社辞めろ!
「組織で一番強いリーダーになりたい」 → 弱そうなやつを脅迫して俺に逆らったらどういう目に遭うかを皆に知らしめてやる。
「男の方が偉いに決まっている」 → 女のくせに生意気だ。女は口を挟むな、黙ってろ。誰の稼ぎで飯食わせてもらっているんだ。
「子どもが失敗するのではと心配で任せられない」 → 何でも親が決めてやり、間違った事をしないように𠮟りつける。
「子どもに苦労させたくない」 → 嫌な事・辛い事はやらなくていいよ。何でもお父(母)さんがやってあげるよ。(成長を奪う)
「子どもには聖人のように清い心を持ってほしい」 → いじわるされても暴力を振るわれてもやり返してはいけない、我慢しなさい。
利己主義の人は自分の幸福を追求する事を優先し、他者を不幸にしても気にしない、又は気づかない。
自分が勝つこと・有利になる事を最優先にして生きています。
自己主張が苦手な人や繊細な心の持ち主は、他人の言動に左右され過ぎて気にし過ぎてしまいます。
相手が悪いのに「自分がいけなかったのかも」と自己を責めてしまいます。
アフリカ原住民ハッサの狩猟採集民族は、獲物を獲得したら村人みんなに分配し格差がないように助け合って暮らしている。
こういう格差の少ない社会では差別やストレスも起こらず人的災害は発生しにくい。 (ただし文明は発達しない)
自分の事よりも全体の事を考え、格差を付けず平等に暮らす。 ともに助け合う事が当たり前の利他の社会。
現代社会では忘れがちな価値観です。平和で豊かすぎる社会に暮らしていると助け合う事を忘れてしまいます。
助け合う事・人を傷付けない事を大切に生きている仲間を見つけ、その人たちと生きていく事もできます。
なぜ「ひきこもり」は理解されないのか
学校や会社を支配している価値観は「能力主義」「競争主義」です。 能力のない者はダメな人間と評価され、競争に負けた者は努力が足りないと評価されます。
能力主義や競争社会は否定されません。 『人間の幸福=豊かさ』という価値観を多くの人が持っていて、経済成長や会社の発展、個人の成功にとって不可欠な価値観だからです。
負けた経験はあっても、本当に一番弱い人の立場になったことがある人は世の中に1%もいないでしょう。1番にはなれなくても2番に。2番になれなくても3番に。人は少しでも上を目指して自分の立場や豊かさを向上させたがります。
人よりも自分が(自分の子が)幸せになりたい。誰もがそう欲を持っています。 だから弱い立場の人を理解できないし理解しようとも思っていません。
負け続けて悔しい経験がある人でも、自分が一番弱い立場にならないために努力したり我慢したり、または自分よりも弱い人間を探し、見下したりイジメたりすることで自分は負けていないと思い込もうとしたりしています。
そして「負けて逃げた人間は努力が足りない、我慢が足りない、気持ちが足りない」と、自分の経験と比較して他人を評価します。能力主義・競争主義に染まっているからです。(幼少期からそう教わって育っています)
ひきこもり当事者の中にも同じ価値観を持った方がたくさんいます。親や社会から教わったその価値観で自ら苦しんでいるとも言えます。
しかし本当に苦しくなるくらいに人的被害を受けたことのある人は少数です。そこまで追い詰められた経験のない人は自分の経験の範囲内でしか考えることが出来ません。
だから本当に辛い精神状態を共感できないのです。
「勉強なんてしなくても良い」「嫌なら就職しなくても構わない」「辛かったら嫌な事から逃げて良い」と自信をもって言える大人がどのくらいいるでしょうか?
大抵の大人は「もっと努力しなさい」「そのくらい我慢しなさい」「負けてくやしくないのか」「頑張らないと将来みじめになるぞ」「逃げていては何もできないぞ」と、自分の不安を子どもや部下にぶつけます。
ひきこもりを認めたり同情したりすると「自分も無能な人間と思われるのでは」と恐れている人が多いのが競争社会です。
ひきこもっている人を理解できるのは、同じように追い詰められて逃げた経験のある人や人生を諦めた経験のある人だけでしょう。
(もちろんひきこもっている人の中にも他のひきこもっている人をダメな人間という人もいます)
人的災害はなくならない
平和で豊かな現代社会では、利己主義や競争社会・能力主義をなくすことは不可能です。
他人の幸せよりも自分の幸せが大事と育っている人が増えています。
社会の発展と豊かさを目指す多くの人間にとっては能力主義や競争社会は疑いようのない大事な価値観だからです。
人的災害は教育や法律等の社会の努力により減ることはあっても、決してなくなりはしません。
不幸にして人的災害に合ってしまった時に ”どう対処するか、どうケアするか” を考える事が重要です。
世の中全てが競争社会とは限りません。 特に自然災害の多い日本では文化的に利他主義が浸透しています。
競争の強い組織を避け、利益を追求しない仕事や人の役に立つ仕事、困っている人を助ける仕事もあります。
組織のメンバーや上司にもよりますが、悪い組織ばかりではありません。
たくさんお金を稼ぐことだけが幸福ではありません。 立派な肩書を得ることだけが誇りではありません。
幸せに生きる方法は他にもたくさんあります。
自分に合った仕事や組織・メンバーを探して適応できるように努力すれば、あなたの持てる力を発揮できるはず。
人を恨んでも始まらない
自分に被害を与えた人間を憎み恨んだとしても解決にはつながらない。
それは不幸の連鎖です。それに囚われていては成長できない。傷ついた心をケアして新たな気持ちで前向きに生きられるようになることこそ幸福な人生です。
人的災害は防ぐことができた人もいます。 防げなかった自分、予測できなかった自分を責めるのではなく、これから先同じことが起きたらどうすれば良いかを学んで身に着ける事が将来につながります。
自分の価値観や意見・態度や主張を見直して、より良い価値観や意見・態度を考え学ぶことで生き方を変えられます。
自分を見つめ直すことで自分の弱さや欠点が見えてきます。意地を張らずに弱い自分を認め自分を変える勇気も大切です。
心の成長こそが幸福です。
前に進むために必要な事
追い詰められた時に自分にはもう道はないと思い込んでしまいます。教わった価値観の中で考えているから道がないのです。
道は必ずあります。それを見つける事ができるかどうかは他者の支援が必要です。
一歩前に踏み出せないのは不安があるから。不安があるのは自信が持てないから。自信が持てないのは自分が好きな事ではないから。
親の目・先生や上司の目・世間の目を意識して理想的であることを望んでいては前に踏み出せない。
自分の弱みや苦手を知り、自分が心ときめく楽しみを探し、楽しさの追求を体験して初めて気持ちが前に進みます。
「ひきこもり」の呼び名について
「ひきこもり」と言う言葉が定着しています。 斎藤環先生の「社会的ひきこもり」という言葉が有名です。
「ひきこもり」とはその状態を表す言葉であって、ひきこもっている人を「ひきこもり」とレッテルを張って呼ぶための物ではありません。
「ひきこもり」の中には様々な原因と症状があり、皆同じではありません。具合が悪くて寝込んでいる人を「体調不良」と呼んでいるようなものです。
体調不良の中には疲れや筋肉痛、風邪やウイルス感染、熱中症、心疾患、内臓疾患、脳の病気、片頭痛、精神疾患、腰や背骨の神経の損傷、など様々です。
私は「ひきこもり」という言葉で簡単に表現したくはありません。 しかし人々が一番理解しやすく共通言語になっているのが「ひきこもり」です。
ネット検索でも「ひきこもり」のワードで検索する方が多いと思いますので、やむを得ず使用させてください。